日本の伝統文化紹介・・・音曲

雅楽

雅楽(ががく)は、中国、朝鮮半島を経て、ベトナム、主に日本で花開いた伝統的な音楽の一つ。世界最古のオーケストラと言われる。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる日本の雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。アジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合し日本化した芸術で、10世紀頃に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまでさかのぼる。 現在においては、 国風歌舞(くにぶりのうたまい) 日本古来の歌謡をもとに平安期に完成された、神道や皇室に深い関わりをもつ歌舞。 大陸系の楽舞 5世紀頃から9世紀頃までの間に大陸から伝わった楽舞をもとに日本で作られた、中国、天竺、林邑系の唐楽(とうがく)と、朝鮮半島、渤海系の高麗楽(こまがく)。 謡物(うたいもの)日本古来の民詩や漢詩に節づけをし、大陸からの渡来楽器による伴奏をともなう平安期に作られた歌曲。 の三つに大別される。 雅楽の原義は「雅正の楽舞」で、「俗楽」の対。国内の宮内庁式部職楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が演奏する曲目の内、洋楽を除くもの、とされる。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されている。現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。ただし、平安時代に行われた楽制改革により大陸から伝来したものは編曲や整理統合がなされ国風化しているためかなり変化しており、主に京都の貴族の間で行われていた宮廷音楽としての雅楽の形態については応仁の乱以降、江戸幕府が楽師の末裔(楽家)をあつめて再編するまでは100年以上ほぼ断絶していたので往時の形態をどこまで継承しているかは不明である。また、後述するように明治時代以降は演奏速度に変化が見られる。 篳篥のカタカナで記されている譜面を唱歌(しょうが : メロディーを暗謡するために譜面の文字に節をつけて歌う事)として歌うときにハ行の発音をファフィフフェフォと発音するなど16世紀以前の日本語の発音の特徴などはそのまま伝えられている可能性が高い。 楽琵琶の譜面のように漢字で記されるものは、中国の敦煌で発見された琵琶譜とも類似点が多く、さらに古い大陸から伝わった様式が多く継承されている。 最も重要な史料としては、豊原統秋(1450~1512)が応仁の乱により雅楽等の記録が散逸することを憂えて著した『體源抄』(たいげんしょう)があげられる。笙の楽家の統秋が、笙を中心とした雅楽、舞楽についての記録をまとめたもので、古い時代の雅楽についての貴重な記録である。日本三大楽書の一。13巻22冊。永正9年成立。

邦楽

邦楽(ほうがく)とは、日本の音楽のこと。 本項においては狭義の邦楽である、日本の伝統的な民族音楽や古典音楽などを説明する。和楽、国楽とも呼ばれ、日本のポピュラー音楽であるJ-POPや昭和の歌謡曲との区別のため、純邦楽とされることもある。大宝元年(701年)に制定された大宝律令に雅楽寮(うたまひのつかさ)という音楽専門の部署を設置するという記述がある。外国の音楽と世俗の音楽をまとめ宮廷音楽とする試みである。 古代より室町時代前期の千年間に現れた邦楽の要素を大きく分けると、 御神楽、東遊などの上代歌舞(国風歌舞)。 中国、朝鮮、南アジアなど渡来の音楽を取り入れた宮廷音楽、雅楽。 仏典に旋律を加えた歌曲(声明、和讃等)、現代でいう宗教音楽。 世俗で育まれた歌曲、現代でいう民謡。 がある。これらが相互に混じりあい多くの邦楽が形成された。この期間に生まれた音楽は現代まで継承されているものも多い。

浄瑠璃節

浄瑠璃(じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る劇場音楽、音曲である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶのが一般的である。 浄瑠璃の流派は江戸時代初期から「〜節」とする太夫が多く表れたが、現在、「義太夫節」「河東節」「一中節」「常磐津節」「富本節」「清元節」「新内節」「宮園節」の8種類の浄瑠璃がある。地方によっては「浄瑠璃」という語が義太夫節のことのみを指す場合があるが、上記に様に8種の浄瑠璃が現存し、あくまで義太夫節は浄瑠璃の1つである。 なお義太夫節では同一の丸本が、人形浄瑠璃狂言に用いられる場合と、丸本歌舞伎における場合とでは、微妙に間合いが異なることとなる。戦国時代ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』。作者は「百家系譜」によれば小野阿通という織田信長に仕える侍女で、大病のため静養していた信長のために三味線を用いて語ったという説が江戸時代までは有力であったが、現在までに様々な学者により議論が進められ、享禄4年(1531)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から浄瑠璃(十二段草紙)が存在していた、との記述があり、それを当道座に所属していた琵琶法師によって、平曲(平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節づけがなされ、はじめ琵琶で演奏されていたものが、虎沢検校に師事した沢住検校によって三味線を用いて語るようになり、それを小野阿通が信長に聞かせたという説が一般的である